本来、万人がもっている創造性を学校教育が壊してしまっているとは…教師にとっては耳が痛い話かもしれないね。
しかし、これは学校教育だけでなく、全ての大人の子供への接し方にもいえることではないかな。
私達は昔は皆、子供だった。当たり前だけど。
無邪気で好奇心旺盛で、怖いもの知らずだった頃があったよね。
当然、間違いを恐れるということもなく、間違いからも学べることを身をもって知っていたんだ。
いや、そもそも間違いや失敗という概念など持ち合わせていなかったのではないだろうか。
だから、子供のころはみんな無限大の世界で生きていたと思うんだ。コレはダメ、アレはしてもいい、コレは失敗、コレは成功、という枠などないんだから。
驚きも、痛みも、喜びも、気持ちよさも、悲しみも、すべてが経験であり、学習だった。
私は子供の頃、田んぼで全身泥まみれになって遊んだことがあったけど、
今思えば大人が泥まみれになったら、失敗であり恥ずべきことかもしれないけど、
子供にとっては単に一生懸命に遊んだ結果でしかない。失敗でも成功でもなんでもない。
遊んだ結果、「泥がいっぱいついちゃった。」というそれだけのこと。
だけど、大人になった今では、もし泥だらけになってしまったら「あ~あ、大失敗」って思ってしまう。
だからまず、どんなに暇だとしても絶対に「泥だらけになって遊ぼう」なんて考えもしない。
それが大人。
でも、悲しいかな、そういうこと一つとっても、子供のころの独創性を失ってしまったということにもなるんだろうね。
今日の教育制度は、産業社会のニーズから生まれたものがベースになっている。
要するに、極端な言い方をすれば、工場で働く人を育てるために生まれた教育制度だってことだよね。
だから独創性はいらない。工場で働く人が独創性を発揮してアートに走ったら大変でしょ。
大量生産、大量消費の時代だったからね。
でも、今はもうそういう時代じゃない。クリエイティブな発想で、革新的な商品やサービスを生み出していかなければいけない時代なんだ。
独創性こそ必要な時代なんだよ。
だから、独創性を殺してしまうような、産業社会のニーズをベースにした教育制度は変わる必要があるってこと。
そのためには、まず知性の意味が変わる必要がある。
知性って聞くと、難しい数学ができて…とか、歴史にすごく詳しいとか、そういう学校の勉強の延長線上にあるものをイメージしてしまうけど
そういう感覚がもう古いってことだね。
これからの時代では、知性という意味は多様化するようになる。
数学だけじゃなく、アートだったり、ミュージックだったり、スポーツだったり、そういったものも知性に含まれるようになる。
そうして多様化した知性(様々なジャンル)が相互に影響を与え合って、独創的なアイデアを生むんだ。
それを創造性というんだね。
こうして育まれた、創造性がこれからの人類の豊かな未来を切り開いていくことになる。
だから、これからは教育によって創造性を殺してしまってはいけない。
むしろ、創造性を子供の頃から育み、才能を引き出していく教育をしていかなければならない。
アートもミュージックもスポーツも、トンデモも、独創的なものや個性的なものも、全部を知性というカテゴリーに入れる世の中をつくらなければならない。
そして、それは大人が子供にどう接するかにかかっていると思う。
学校教育だけでなく、全ての大人が子供のあるがままを受け止めて温かく育てていくことで、
子供達は未来において、自分達の持つ創造性の恩恵を十分に発揮し、
今の大人が解決できないような問題さえも、持ち前の創造力でいとも簡単に解決し、
よりよい人類の未来を切り開いていってくれるであろうと思うんだ。